クロニクル
スペイン・カップ:セビージャ - セルタ・デ・ビーゴ(4-1)
セビージャFCがチャマルティンでセルタ・デ・ビーゴから大量得点を奪い、3度目のカップを手に入れました。マドリードの地では2回目の勝利。

マドリードのチームが出場せず、暑い日曜日だったため、マドリードの人々は山や海を選び、チャマルティン・スタジアムは満員にはなりませんでした。それでも、スタジアムには60000人が集まりました。多くのセビージャサポーター、ビーゴサポーターがスタジアムに詰めかけました。
しかし、地元マドリードの観客の多くが劣勢とみられるビーゴの応援をしたため、ビーゴの応援の方が盛り上がりました。その他にもミゲル・ムニョス、パイニョという元マドリード選手がビーゴにいたことも、ビーゴの応援をする理由になりました。元レアル・マドリードの伝説的な選手、リカルド・サモラもベンチに。
開始早々、ミゲル・ムニョスがゴールを決め、セルタが先制、セビージャにとって苦しいスタートとなりました。開始から6分、最悪のケースです。セビージャはセルタのゴールを目指し、19分にフアン・アルサが同点ゴールを決めました。同点のまま後半に入った場合、試合の行方が分からず、セビージャはプレッシャーをかけ、前半のうちに2点目を狙いました。
マリアーノの3ゴールがセビージャに3度目のカップをもたらしました。
後半、セビージャのストライカー、マリアーノが力を発揮(カステジョンとの試合では5ゴールを決めています)。60分、マリアーノが敵陣深くまでボールを運び、ビーゴからゴールを奪いました。このプレーでビーゴのGKが負傷。ほぼセルタは試合をあきらめることになりました。中盤のアロンソがGKシモンに代わり、セルタはセビージャの操り人形と化しました。
エギルス、アルサ、ドメネチが試合を支配し、セビージャの攻撃陣を猛攻。マリアーノがセルタの選手、コーチ、サポーターを前に試合を決定づける2得点。パイニョがエギルスに乱暴を振るい、ビジャルタ審判によって退場処分。さらに、最後の数分、セルタのジャジョとアレティオが負傷。醜いジェスターを示したのはリカルド・サモラ。VIP席、スタジアム責任者を前に醜い行動をとりました。試合終了後、審判は「セビージャは演ずることなく、サッカーを貫いた」とコメント。
セビージャでの熱狂的な歓迎
前回のように、セビージャでは熱狂的な歓迎を受けました。歓迎はまたも盛大でした。マドリードからバスで戻る選手たちを出迎えるため、何千もの人が街に押し寄せました。セビージャのラモン・サンチェス・ピスフアン会長と理事たちはクルス・デル・カンポに集まり、カルモナ、エル・ビソ、マイレナと巡り、最後はセビージャのキャプテンであるホアキン・ヒメネス・ポスティゴの出身地であるアルカラ・デ・グアダイラへ向かいました。凱旋パレードはクルス・デル・カンポから市役所まで続き、数々の場所で止まり、場所によっては大観衆により前に進むことができませんでした
市役所では臨時市長であるベルムデス・バレラが歓迎。サンチェス・ピスフアン会長は勝利をセビリアに捧げ、市民から大喝采を浴びました。市役所は勝者である選手たちに金の時計と銀のたばこケースをプレゼント。翌日、選手たちは多くの場所を訪れ、ヘスス・デル・グラン・ポデール病院を訪れ、病気の子供たちと喜びをわかちあいました。
試合記録
4. セビージャ: ブスト、ホアキン、ベルモンテ、アルコネロ、アントゥネス、エギルス、ピネダ、アルサ、マリアーノ、ドメネチ、カンポス
1. RCセルタ・デ・ビーゴ: シモン、メサ、カビニョ、ガイトス、アロンソ、ジャジョ、ロイグ、ムニョス、パイニョ、バスケス
得点: 0-1 6分、ムニョス, 1-1 19分、アルサ, 2-1 60分、マリアーノ, 3-1 75分、マリアーノ, 4-1 76分、マリアーノ
審判:アグスティン・ビラルタ
記録: スペイン・カップ1947/1948決勝、チャマルティン・スタジアム(マドリード)、1948年7月4日。観衆:60000以上。セビージャサポーター約5000人、ビーゴサポーター約3000人。その他の観衆はマドリードやそれ以外の地域の人々。